私の中にあったうやむやを的確に表わして問題点へ切り込んでおり、大変に参考になる。素晴らしいと感じた。特に私たちの日常から教育現場、マスコミまでをつらぬく問題点として照らし出しているので、なかなか考えさせられてしまう。なので、そのままをコピペしておく。
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NBOnline
危機感駆動型ニッポンの危機!?
ネガティブなニュースの濁流に流されるな
2008年3月12日 水曜日 竹中 正治
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/
20080310/149475/
2003年、米国ワシントンDCに赴任し、DCに隣接するメリーランド州のカーディーラーで自動車を買った時のことである。購入してから2~3日後に自動車メーカーから顧客満足度アンケート(Customer Satisfaction Survey)にご協力くださいと電話がかかってきた。販売店のサービスに対する購入者の満足度を調査するものである。
諸項目について「素晴らしい(Excellent)」「とても良い(Very Good)」「良い(Good)」「普通(Fair)」「不満足(Unsatisfactory)」の5段階評価で選べと言う。普通に満足していたので「とても良い」と「良い」を中心に「素晴らしい」も少し交ぜて回答した。
褒める米国、けなす日本
1~2週間してから、販売店の営業担当者から私に電話があり、「買った車に何か問題がありますか?」と聞かれた。「問題ないよ。新しい車を楽しんでいるよ」と答えると、「それじゃ、満足度調査でどうしてあんなに悪い評価をくれたのですか?」と言う。
「悪い評価なんて回答してないよ。おおむね“とても良い”と“良い”で答えたよ」と言うと、「あんた! そりゃひどいスコアってことだよ」と愚痴られた。「素晴らしい(Excellent)」以外は「問題あり」のバッドスコアなのだそうだ。
だが、日本人はよほど感動でもしない限り「素晴らしい」なんて言わない。
これは顧客満足度調査に限った話ではない。学校で先生が生徒を指導する時も米国では「Excellent! Great! Perfect!」の連発である。ゴルフ練習場でもお父さんが小学生の息子にクラブを振らせて、ちょっとでもボールが前に転がれば、「Excellent! Great! Perfect!」を連発している。日本人だったら上手にできても「よくできた(Well done.)」でおしまいだ。
米国で数年育った帰国子女が日本の学校でよく感じる不満は、「学校の先生が全然褒めてくれない」ことだという。これは企業でも同じであり、海外の日系企業で日本人上司と部下の米国人の間で相互不理解の原因によくなる。
日本人上司は米国人スタッフの勤務態度や実績に特に問題を感じていない場合でも、米国人スタッフは「日本人上司が自分のことを全く評価してくれていない」と感じて不満を鬱積させる。
「危機感が足りないぞ、おまえ!」と子供に言う異様さ
要するに米国人は相手のパフォーマンスを評価する立場にある場合、ポジティブな表現に気前が良く、日本人は極めて禁欲的である。その反対にネガティブな表現を米国人はあまり使わない。最悪でも「OK」であり、それ以下の表現は相手と喧嘩する(あるいは部下ならクビにする)つもりでなければ普通は使わない。米国映画を見ていると頻繁に「fuck you」なんて台詞が出てくるので、米国人は気軽に罵り合うようなイメージを抱いているとすれば、それはちょっと違うのだ。
一方、日本人の方が職場や教育現場でもネガティブな表現を気軽に使う。学校の先生が勉強の足りない受験生に「危機感が足りないぞ、おまえ!」なんて言うのは常套句だろう。
表現に関する文化的な違いと言ってしまえばそれまでであるが、どうも根がもっと深いのではないだろうか。日本人の某教育アドバイザーがある雑誌で、生徒の親と面談した時のことをこう書いていた。
「自分の子供の良いところを3点挙げてくださいと言うと、困ってしまって真剣に考え込む母親が多い。反対に良くない点を挙げてくださいと言うと、自信あり気にスラスラと答える。困ったものだ。お母さんにはもっと子供をポジティブに見る眼と言葉を持って欲しい。それが子供の内発的な動機を高め、向上感、有能感、他者受容感、自尊感情を育てることになる」
「危機」「崩壊」の文字で溢れ返る日本の経済誌
最近の日本の経済誌の表紙を思い出してみていただきたい。「危機」「崩壊」などの見出しがなんと多いことか。
そこで実際に数えて比較してみた。日本の週刊経済誌(エコノミスト、東洋経済、ダイヤモンド)と米国のBusiness WeekとTIMEの2007年1年間の表紙の見出しから、明らかにポジティブ、ネガティブと分類できる用語を拾った。
日本の雑誌からはネガティブ用語が73、ポジティブ用語が23で、割合は76%対24%となり、圧倒的にネガティブ用語に傾斜している。一方、米週刊誌からはネガティブが32、ポジティブが25で、割合は56%対44%となり、ネガティブ用語がやや優勢だがおおむねバランスしている。
日本の雑誌で最も頻繁に登場したネガティブ用語は、「崩壊」が9つ、「バブル」が8つ、「危機」が8つである。一方、米国では「crisis」が3回登場したほかには、頻繁に繰り返されるネガティブ用語は見当たらなかった。もちろん「危機」も「crisis」も2007年に顕在化した米国のサブプライムローン(信用力の低い個人向け住宅融資)危機に絡んで用いられている場合が多い。
おっと、うっかり! 肝心の日経ビジネスを数えるのを忘れていた。数えてみて驚いた。日経ビジネス(本誌)だけは、ネガティブ用語36%、ポジティブ用語64%で比率が逆転している。ポジティブトーン、私は好きだ。しかし日本のカルチャーの中では一歩間違えると「能天気」と言われかねない。
日本のメディアは「危機」や「崩壊」などのネガティブ用語を多用して世間の雰囲気を悲観的な方向に傾斜させている──などと言うつもりはない。私はメディアの編集者らが日本人読者の強く反応しそうな用語を選んでいる結果に過ぎないと思う。
日米を問わず、一般にメディアは良いニュースよりも悪いニュースに紙面を割き、センセーショナルに報道する傾向がある。これはメディアの偏向と言うよりも、ある程度までは、良いニュースよりも悪いニュースにより敏感に反応する傾向が人間(読者、視聴者)にある結果だと思う。
悪いニュースを求めるのは生き延びるための本能?
行動ファイナンスの研究によると、人間にとって「損」と「益」に対する感覚は対称的ではない。損が生じる苦痛は同額の益が生じる喜びを上回ることが実験で確認されている。これから類推すると、悪い情報と良い情報についても、同様に人間の感覚は非対称的のように思える。
これは、進化──淘汰と適応──の結果生じた人間の性向だと考えると納得できる。特定の場所に「実をつけた木がある」という情報(良いニュース)と「捕食動物がいる」という情報(悪いニュース)のどちらに強く反応する性向の方が生き延びる確率が高くなるだろうか。「木の実情報」を聞きもらせば、食べ損ねるだろうが、すぐに餓死するわけではない。一方、「捕食動物情報」を聞きもらせば、今にも襲われて死ぬ確率がぐんと高くなる。
しかし、米国人より日本人が「危機」に代表されるネガティブ表現を好むのはどうしてだろうか。
「危機感駆動型」の日本と「希望駆動型」の米国
この違いを類型化すると、日本人に多い類型は「危機感駆動型」であると言える。「このままではお前(日本)はダメになる!」「危機だ!」と言われると強く反応して動き出すわけである。一方、米国人に多い類型は「希望駆動型」である。「できるじゃないか!」「ステップアップできるぞ!」と励まされると強く反応して動く。こうして考えると、日米の様々な違いが説明できる。
例えば、米国のエコノミストには毎度楽観的な見通しを言う連中がなぜこうも多いのか。反対に日本のエコノミストには、どうして「危機の預言者」みたいな連中がわんさといるのか。
日本の歴代首相や政治家は、まず危機感の強調から始まるタイプが多い。「日本はこのままではダメになる!」方式だ。一方、米国の大統領、政治リーダーたちはどんな困難な状況でもまず希望を語ることから始める。「私のリーダーシップを受け入れるならば、難局は打開できる」と、まず希望を語るのが米国のリーダーの資質だ。
「危機・没落に直面しているのだから構造転換(改革)しないと日本はダメになる」なんて議論は、戦後を通じて何度も形を変えて繰り返されてきた。1960年代から70年代初頭に東京大学のマルクス経済学者らによって編集・発刊された代表的なシリーズは「日本資本主義の没落」である。高度経済成長の真っ只中で「没落」を強調する感性はピント外れを通り越して、超先見性とでも呼んだらよいのか。
臥薪嘗胆、富国強兵、輸出立国に共通する危機感のエートス
なぜ日本で「危機感駆動型」が主流になったのか。実証的に語ることは難しいので、これは筆者の空想的な仮説に過ぎないが、日本のたどった現代の歴史的な環境、「生い立ち」に負うところが大きいのかもしれない。
幕末、明治の日本人を駆動したのは危機感だった。幕末の攘夷論に始まり、明治には「臥薪嘗胆、富国強兵で欧米列強に伍していかねば、日本は立ち行かなくなる」という強烈な危機感をバネに展開してきた。「臥薪嘗胆」や「富国強兵」は中学の歴史の教科書で習い、私自身の心にも深く刻まれた。
戦後の日本経済の「輸出立国」もやはり危機感駆動型を下地にしたものだ。
「日本は天然資源の乏しい小さな島国。だから資源を輸入して高品質の製品を製造、輸出して外貨を稼がなくては経済が立ち行かなくなる」
これは戦後の日本人の多くが共有した一種の「教条化された危機感」である。「臥薪嘗胆、富国強兵」は「輸出振興、高度成長」に代わったが、下地にあるエートスは同じ「危機感」である。
一方、米国は欧州で食いはぐれ、あるいは宗教的に迫害された人たちが「新大陸での希望」に賭けて移民してできた社会だ。16世紀には北米の植民者の半分ほどが最初の厳しい冬を越えることができずに死んだと言われるが、それでも彼らを突き動かしたのは「危機感」ではなく、「希望」だった。
東海岸地域であぶれた人たちも、西部・フロンティアへの希望に導かれて西海岸まで広がった。カリフォルニアのゴールドラッシュは、そうしたフロンティアでの希望の実現を象徴する出来事だったのだろう。
地理的なフロンティアが消滅しても、新ビジネスや技術開発がもたらすフロンティアの希望に駆られて走り続けてきた。現在でも、毎年不法入国も含むと100万人近い移民が「職を得る希望」に導かれて米国に流入する。
「危機感駆動型アプローチ」では日本は良くならない
ともあれ、危機感をバネにすることでしか変革できない性分ならば、「危機」や「没落」を強調する今日の風潮も、日本的な変革志向の一環ということになるのだろうか。しかし、どうも今日の日本で語られる「危機論」や「このままでは没落する論」は変革機運に結びついているというよりも、むしろ自己暗示的な自縛や閉塞を生んでしまっているような気がしてならない。
日本が今日直面している1つの問題は「危機感駆動型アプローチ」の限界それ自体なのではなかろうか。危機感駆動型の限界は「喉元過ぎれば熱さを忘れる」ことにある。
幕末の西欧列強が武力で植民地獲得競争をしていた時代、あるいは戦後日本のほとんどの都市が空襲で焼け野原となった状態では、事態は切迫した危機そのものであり、危機感をバネにした変革も頑張りも長期に持続するものとなった。
ところが、なんだかんだ言っても豊かさを実現した今日、不良債権問題と不況が終焉するや大した改革もしていないうちに「改革疲れ」を語り、変革機運は後退してしまった。財政赤字、年金不安、少子高齢化、地球温暖化──。今日の日本の諸問題は放置しておけばやがて大禍となろうが、何もしなくても今日、明日に困るものではない。危機感駆動型アプローチが最も苦手とする代物なのだ。
アプローチを切り替えて希望駆動型にシフトし、個人レベルでは各人の弱点を強調、矯正するよりも、強みを伸ばす姿勢を取るべきではないだろうか。組織や社会のマクロレベルでは長期的な将来の目標を掲げて牽引する方策の方がよいのではなかろうか。そのようなビジョンを持った国政レベルのリーダーシップが不在であることは困ったことだが、各層でできることはあるだろう。
「お父さんの良い点を挙げなさい」。8歳と12歳の自分の子供に言ったら、まるで気乗り薄で「別に~。働いていることかなあ」「まあ、お金ないと困るしね」とのご回答。
「じゃあ、お父さんの悪い点を挙げなさい」と言うと、急に目を輝かせて「ビール飲み過ぎ!」「ワインも飲み過ぎかも!」「暖房の温度上げ過ぎ」「冷房の温度は下げ過ぎ」などとポンポン飛び出してくる。
う~ん、どうやら自分の家庭の意識変革から取り組む必要があるようだ。
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NBOnline
危機感駆動型ニッポンの危機!?【続編】
日本人の“無謬信仰”こそが閉塞の元凶だ
2008年3月21日 金曜日 竹中 正治
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/
20080319/150553/
前回の論考『危機感駆動型ニッポンの危機!?』に寄せられた35件のコメントを見る限り、今の日本に本当の危機感があるのか、あるいは日本が危機感駆動型とは違ったやり方で変革できるのかについては、ご異論の方々もいた。しかし、私たち日本人の類型(平均的な性向)が危機感駆動型である点については一致した同意をいただいたようである。
その中で1つ、私の心を捉えた次のようなコメントがあった。
「一方で日本企業は、危機管理の点で詰めが大甘です。リスクを見て見ぬふりをしてフタをするからではないかと思います。ネガティブなことを言うと忌み嫌われることがあります。特に経営者の方々にコンサルタントが『御社にはこういうリスクがあります』というようなことを言うと『縁起が悪い』といって怒られる」
なるほど、日本の組織、社会は危機管理が甘いと言われてきた。もちろん、日本の組織に「危機管理がない」わけではない。
例えば2004年の新潟県中越地震の際に1人の死傷者も出すことなく緊急停止した上越新幹線、あるいは昨年の中越沖大地震の時に想定の2倍以上の激震にもかかわらず放射能漏れを起こすことなく緊急停止した柏崎刈羽原子力発電所など、こうした事例を見ると、想定された緊急時に対応する高度な危機管理も実現されている。つまり「想定される地震に対する安全度の向上」というような事業の計画通りの遂行には強い執着力を発揮する組織なのだ。
危機感は十分過ぎるのに危機管理は杜撰という矛盾
ところが、不確実な現実の中で様々な悪環境を想定し、期待通り進まなくなった場合の次善策や軌道修正、代替策を用意しながら事業を進めることはひどく苦手のようだ。想定された情勢と現実が大きく乖離し始めても、「決められたことだから」とどんどん進められてしまう莫大な公共事業、薬害情報が上がってきても「使用中止」を通知せずに被害を広げてしまう行政など枚挙にいとまがない。
一見矛盾する日本人の危機感駆動型と危機管理の杜撰さはどのような仕組みで並存しているのだろうか。エコノミストとしての領域から外れて(とっくに外れているだろうが)政治学や社会学の領域に突っ込みそうだが、この分野ではアマチュアの特権で大胆に思考の羽を広げてみよう。
工学が専門の東京大学名誉教授、畑村洋太郎は著書『失敗学のすすめ』(2000年、講談社)の中で、様々な致命的な事故が「失敗と上手くつき合うことができなかったことが原因」で起こると述べている。要するに、失敗の発生を前提とし、小規模の失敗が生じた時にはそれが大規模な失敗に発展しないようなフィードバックを働かす、あるいは起こった失敗の諸事例から失敗の要因と法則性を抽出して未然に防止する仕組みを整える──、そうした運営、学習に日本型の組織、教育は弱いのではなかろうかと指摘している。
なるほど、その通りだろう。これは今に始まったことではない。旧日本軍の組織的弱点を分析した『失敗の本質─日本軍の組織論的研究』(戸部良一ほか著、1984年、ダイヤモンド社)を読まれた方は多いだろう。「失敗の本質」から浮かび上がってくる1つのポイントは、旧日本軍が作戦の立案から遂行まですべての面にわたって、失敗した場合の代替策を用意せず、成功も失敗も合理的に分析して教訓を抽出することのない組織だったことだ。
合理的で柔軟な戦略形成が不在だから、特に戦争の後半戦では兵力において勝る米軍に対して、本土防衛の危機感を煽り、あるいは「精神力では勝っているから勝機はある」などという陳腐な鼓舞を繰り返し、玉砕していったわけである。
そもそも対米開戦の是非について、政策の意思決定過程で様々なケースを想定した戦略シミュレーションが行われていれば、軍事・生産能力における彼我の差は歴然としており、開戦は無謀な策として退けられただろう。その結果、外交を通じた妥協・妥結が志向されていただろう。ところが結局、東条英機の「人間たまには清水の舞台から目をつぶってとび降りることも必要だ」という情緒に支配され、危機感を煽りながら、危機管理のない戦争に突入したのだ。
失敗からの学習を妨げる日本の無謬信仰
【無▼謬】 むびゅう[―びう] Yahoo大辞林より [ 大辞林 提供:三省堂 ]
誤りのないこと。
では失敗に遭遇して軌道修正すること、失敗から学ぶことを難しくしている日本特有のカルチャーとは一体何だろうか。それを一言で表現すれば「御上の無謬信仰」ではなかろうか。
薬害訴訟に象徴されるように日本の行政組織は致命的な惨状に直面するまで行政の過失、誤謬を認めようとしない。旧大蔵省時代の「銀行は1行たりとも破綻させない」という護送船団方式も無謬信仰の1つであった。
無論、東西を問わず官僚組織にはこの点で同じ傾向がある。しかし、米国では政権が代われば、行政官僚機構の上層部も代わるので、前政権時代の失敗を認めることも、政策転換も比較的ドラスチックにできる。ところが日本ではそうした交代が起こらないので、行政組織に失敗を認知する自浄作用が働き難い。
民間の大組織でも同様だ。社長も頭取も内部昇進で決まる組織では、現経営陣トップの経営政策の失敗が社内で冷静に議論、評価され、教訓が抽出されるようなことがなかなか起こらない。事故が起こって問題が表面化すると、経営のトップが記者会見を開いて「ニ度とこうした過ちが起こらぬように再発防止に努めます」と陳謝する。しかし、こうした発言自体が「無謬信仰」を上塗りしているのではなかろうか。
過ちは確率的にどうしても起こるものであり、それを前提に小さい失敗を許容しながらも、それが大きな失敗につながらない工夫が必要なのだ。
無謬信仰が御上の論理に過ぎないのであれば、様々な失敗、失策の結果、とっくに信仰は瓦解しているだろう。ところが、政府や大企業の過ちを批判するマスコミや一般国民にも「御上(公共の責任を担うような大企業を含む)は本来無謬であるべきだ」という信仰があり、無謬信仰を根強いものにしている。
無謬信仰の熱烈信者はマスコミ
日本のマスコミは、この信仰をわずかでも裏切る過ちを犯した権力・権威には容赦のないバッシングを浴びせるのが自らの崇高な使命だと思っているようだ。
昨年の中越沖大地震では全く問題にならない程度の微量の放射能漏れであったにもかかわらず、柏崎刈羽原発の「安全性」をセンセーショナルに叩いたマスコミの姿勢はその一例だ。米国牛肉のBSE(牛海綿状脳症、狂牛病)問題でも、輸入される牛肉は「完璧に安全」でなければ「日本の食の安心が崩壊する」と言わんばかりの報道が続いた。同じことが中国産の農薬入り冷凍餃子事件を発端に冷凍食品全体に今広がろうとしている。
「安全」とは本来確率的に考えられるべき概念であり、絶対の安全ということはあり得ない。安全の精度を上げるには経済的なコストもかかる。要するに、コストとのバランスでどの程度の安全確率ならよしとするかの冷静な議論が必要なのである。にもかかわらず、完全100%の安全実現を前提として、そうでなければ「安心が崩壊する」という騒ぎはメディアの責任だろうか、それとも国民的な不安神経症の産物なのだろうか。
無謬を前提に作られたシステムはいかに精緻でも、1度失敗が起こると脆く、混乱する。システムの動揺に直面してどうしたらよいのかわからなくなるので、危機感が強調される。「危機を乗り越えるために総員必死になって頑張れ!」という展開になってしまう。無謬信仰と危機感強調カルチャーはこうして並存しているのではなかろうか。
無謬信仰が権力構造におけるリーダーシップ不在の核心
ここまで考えて、はたと気がついた。日本人のこの根強い無謬信仰は、権力構造におけるリーダーシップの不在とも結びついているのではないだろうか。
現実には無謬であり得る権威、権力は存在しない。無謬であり得る唯一のあり方は赤子のように無力化してしまうことである。権力を神聖化、無謬化するためにその頂点は無力化し、実際の権力の執行は下位の者によって代行される構造が生まれる。失敗はすべて、代行者、輔弼(ほひつ)者の責任となれば、頂点は無垢、無謬でいられる。
その究極の姿が天皇である。歴史を振り返れば、天皇が直接的な権力者であった時期(天皇親政)は極めて短い。その権威・権力は常に摂政、関白、将軍、重臣などによって代行されることで、頂点にある天皇は無垢、無謬の存在として存続したのである。権力の代行者であった将軍もその権威が確立すると、神聖化、無謬化するために、実際の権力は執権、老中・大老などによって代行される構造が生まれた。こうして権力構造の頂点から下方に向かって主体的意識の消滅が連鎖的に生じる。
この点について、カレル・ヴァン・ウォルフレンは著書『日本 権力構造の謎』」(1990年、早川書房)で、日本の権力のピラミッド構造には「究極的な政策決定権を持つ頂点が存在しない」と指摘している。この洞察は別に彼のオリジナルではない。精神分析で著名な河合隼雄は「日本的中空構造」という視点を提示して、そのマイナス面として「誰が中心において責任を有しているのかが不明確な体制」が日本的組織、権力の特徴であると述べている(『中空構造日本の深層』、中央公論新社、1982年)。
さらに遡れば、丸山眞男は『現代政治の思想と行動』(1946年)で次のように書き、日本的政策決定プロセスにおける主体的意識の不在を批判している。
「ナチスの指導者は今次の戦争について、その起因はともあれ、開戦への決断に関する明白な意識を持っているに違いない。然るに我が国はこれだけの大戦争を起こしながら、我こそ戦争を起こしたという意識がこれまでの所、どこにも見当たらないのである。何となく何物かに押されつつ、ずるずると国を挙げて戦争の渦中に突入したというこの事態は何を意味するのか」
昭和天皇については、寺崎英成が記した『昭和天皇独白禄』などから、昭和天皇自身が自分は立憲君主であって専制君主ではないので、東条内閣の開戦の決定を天皇自身はそのまま裁可するしか選択肢はなかったと考えていたと伝えられている。戦争責任問題を考えると、こうした主張には大いに異論のあるところだが、日本において神聖な権威・権力は無力化することによって無謬化しようとすることを象徴するものだろう。
そうすると、危機感強調型のカルチャーはリーダーシップ(主体的意識)の不在と表裏だとも言えよう。
何を実現すべきなのか、それを妨げる問題に対して誰が責任を負うのか、解決するために何を改革すればよいのか、そうした議論を一つひとつ積み上げながら前進するためには、明確なビジョンを掲げ、その実現に責任を負うリーダーシップが必要だ。しかしそれが不在だから、問題状況は漠然とした危機感として拡散し、「危機だ。総員奮起して頑張れ!」という毎度の陳腐なお題目に行き着いてしまう。
先ず隗より始めよ
さて、私たちはこのような危機感強調型カルチャーの閉塞からどのように抜け出したらよいのだろうか。政治の面では「政策は過ちを犯す、その時は政権を交代する」という自明の原則を実現するしかないだろう。
同時に、閉塞を生み出している根底に無謬信仰があるのだから、私たちはまずこれを捨てることから始めよう。「失敗ゼロからの脱却」である。
最初に引用した畑村洋太郎が言っている。「決められた設問への解を最短で出す方法、『こうすれば上手くいく』、『失敗しない』方法を学ぶことばかり重視した教育からは、創造力を養う機会は生まれない」──。
昨日までの成功が明日の成功を約束しなくなった今の時代、失敗から学習し、自ら課題を設定して挑戦を繰り返すことを称えようじゃないか。せめて自分の部下、子供、自分が関係する若い世代、そして肝心の己自身にはそうした気持ちで接することから始めよう。
(敬称略)
竹中 正治(たけなか・まさはる)

国際通貨研究所、経済調査部長・
チーフエコノミスト
1979年東京大学経済学部卒、東京三菱銀行(現三菱東京UFJ銀行)の為替資金部次長、調査部次長などを経て、2003年3月よりワシントン駐在員事務所所長。ワシントンから米国の政治・経済の分析レポート「ワシントン情報」を発信する傍ら、National Economists Club(WDC)役員を務めるなどエコノミストとして活動。2007年1月に帰国、2月より現職。著書に、『通貨オプション戦略』(日本経済新聞社、1990年)、『米国経済の真実』(共著編、東洋経済新報社、2002年)、『素人だから勝てる 外貨投資の秘訣』(扶桑社、2006年11月)など。