2008年03月24日

2008年3月23日(日)

チベットでの動乱に目を奪われながら、会社の年度末処理に追われ続けた一週間でした。ようやく訪れた土日の2連休で、休むことだけしかしませんでしたね。季節の変わり目ということもあり、優先順位を変えるのもいいことなのかもしれません。日記を続けられない状況はこれから打破していく課題ではありますが。チベットの件で想う事は、私にはまだそれの善し悪しを判断する立場に無いということです。ただ、両者に不幸が無いことを祈るのみです。そう、こんな考えでは、まだまだ失礼が多い。こんな日記に書く程度にしか行動は起こせません。バランスよく情報を手に入れられるよう気をつけたいと思うものです。


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2008年03月21日

危機駆動型ニッポンの危機!?

私の中にあったうやむやを的確に表わして問題点へ切り込んでおり、大変に参考になる。素晴らしいと感じた。特に私たちの日常から教育現場、マスコミまでをつらぬく問題点として照らし出しているので、なかなか考えさせられてしまう。なので、そのままをコピペしておく。


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NBOnline
危機感駆動型ニッポンの危機!?
ネガティブなニュースの濁流に流されるな

2008年3月12日 水曜日 竹中 正治
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/
20080310/149475/

 2003年、米国ワシントンDCに赴任し、DCに隣接するメリーランド州のカーディーラーで自動車を買った時のことである。購入してから2~3日後に自動車メーカーから顧客満足度アンケート(Customer Satisfaction Survey)にご協力くださいと電話がかかってきた。販売店のサービスに対する購入者の満足度を調査するものである。

 諸項目について「素晴らしい(Excellent)」「とても良い(Very Good)」「良い(Good)」「普通(Fair)」「不満足(Unsatisfactory)」の5段階評価で選べと言う。普通に満足していたので「とても良い」と「良い」を中心に「素晴らしい」も少し交ぜて回答した。


褒める米国、けなす日本

 1~2週間してから、販売店の営業担当者から私に電話があり、「買った車に何か問題がありますか?」と聞かれた。「問題ないよ。新しい車を楽しんでいるよ」と答えると、「それじゃ、満足度調査でどうしてあんなに悪い評価をくれたのですか?」と言う。

 「悪い評価なんて回答してないよ。おおむね“とても良い”と“良い”で答えたよ」と言うと、「あんた! そりゃひどいスコアってことだよ」と愚痴られた。「素晴らしい(Excellent)」以外は「問題あり」のバッドスコアなのだそうだ。

 だが、日本人はよほど感動でもしない限り「素晴らしい」なんて言わない。

 これは顧客満足度調査に限った話ではない。学校で先生が生徒を指導する時も米国では「Excellent! Great! Perfect!」の連発である。ゴルフ練習場でもお父さんが小学生の息子にクラブを振らせて、ちょっとでもボールが前に転がれば、「Excellent! Great! Perfect!」を連発している。日本人だったら上手にできても「よくできた(Well done.)」でおしまいだ。

 米国で数年育った帰国子女が日本の学校でよく感じる不満は、「学校の先生が全然褒めてくれない」ことだという。これは企業でも同じであり、海外の日系企業で日本人上司と部下の米国人の間で相互不理解の原因によくなる。

 日本人上司は米国人スタッフの勤務態度や実績に特に問題を感じていない場合でも、米国人スタッフは「日本人上司が自分のことを全く評価してくれていない」と感じて不満を鬱積させる。


「危機感が足りないぞ、おまえ!」と子供に言う異様さ

 要するに米国人は相手のパフォーマンスを評価する立場にある場合、ポジティブな表現に気前が良く、日本人は極めて禁欲的である。その反対にネガティブな表現を米国人はあまり使わない。最悪でも「OK」であり、それ以下の表現は相手と喧嘩する(あるいは部下ならクビにする)つもりでなければ普通は使わない。米国映画を見ていると頻繁に「fuck you」なんて台詞が出てくるので、米国人は気軽に罵り合うようなイメージを抱いているとすれば、それはちょっと違うのだ。

 一方、日本人の方が職場や教育現場でもネガティブな表現を気軽に使う。学校の先生が勉強の足りない受験生に「危機感が足りないぞ、おまえ!」なんて言うのは常套句だろう。

 表現に関する文化的な違いと言ってしまえばそれまでであるが、どうも根がもっと深いのではないだろうか。日本人の某教育アドバイザーがある雑誌で、生徒の親と面談した時のことをこう書いていた。

 「自分の子供の良いところを3点挙げてくださいと言うと、困ってしまって真剣に考え込む母親が多い。反対に良くない点を挙げてくださいと言うと、自信あり気にスラスラと答える。困ったものだ。お母さんにはもっと子供をポジティブに見る眼と言葉を持って欲しい。それが子供の内発的な動機を高め、向上感、有能感、他者受容感、自尊感情を育てることになる」


「危機」「崩壊」の文字で溢れ返る日本の経済誌

 最近の日本の経済誌の表紙を思い出してみていただきたい。「危機」「崩壊」などの見出しがなんと多いことか。

 そこで実際に数えて比較してみた。日本の週刊経済誌(エコノミスト、東洋経済、ダイヤモンド)と米国のBusiness WeekとTIMEの2007年1年間の表紙の見出しから、明らかにポジティブ、ネガティブと分類できる用語を拾った。

 日本の雑誌からはネガティブ用語が73、ポジティブ用語が23で、割合は76%対24%となり、圧倒的にネガティブ用語に傾斜している。一方、米週刊誌からはネガティブが32、ポジティブが25で、割合は56%対44%となり、ネガティブ用語がやや優勢だがおおむねバランスしている。

 日本の雑誌で最も頻繁に登場したネガティブ用語は、「崩壊」が9つ、「バブル」が8つ、「危機」が8つである。一方、米国では「crisis」が3回登場したほかには、頻繁に繰り返されるネガティブ用語は見当たらなかった。もちろん「危機」も「crisis」も2007年に顕在化した米国のサブプライムローン(信用力の低い個人向け住宅融資)危機に絡んで用いられている場合が多い。

 おっと、うっかり! 肝心の日経ビジネスを数えるのを忘れていた。数えてみて驚いた。日経ビジネス(本誌)だけは、ネガティブ用語36%、ポジティブ用語64%で比率が逆転している。ポジティブトーン、私は好きだ。しかし日本のカルチャーの中では一歩間違えると「能天気」と言われかねない。

 日本のメディアは「危機」や「崩壊」などのネガティブ用語を多用して世間の雰囲気を悲観的な方向に傾斜させている──などと言うつもりはない。私はメディアの編集者らが日本人読者の強く反応しそうな用語を選んでいる結果に過ぎないと思う。

 日米を問わず、一般にメディアは良いニュースよりも悪いニュースに紙面を割き、センセーショナルに報道する傾向がある。これはメディアの偏向と言うよりも、ある程度までは、良いニュースよりも悪いニュースにより敏感に反応する傾向が人間(読者、視聴者)にある結果だと思う。


悪いニュースを求めるのは生き延びるための本能?

 行動ファイナンスの研究によると、人間にとって「損」と「益」に対する感覚は対称的ではない。損が生じる苦痛は同額の益が生じる喜びを上回ることが実験で確認されている。これから類推すると、悪い情報と良い情報についても、同様に人間の感覚は非対称的のように思える。

 これは、進化──淘汰と適応──の結果生じた人間の性向だと考えると納得できる。特定の場所に「実をつけた木がある」という情報(良いニュース)と「捕食動物がいる」という情報(悪いニュース)のどちらに強く反応する性向の方が生き延びる確率が高くなるだろうか。「木の実情報」を聞きもらせば、食べ損ねるだろうが、すぐに餓死するわけではない。一方、「捕食動物情報」を聞きもらせば、今にも襲われて死ぬ確率がぐんと高くなる。

 しかし、米国人より日本人が「危機」に代表されるネガティブ表現を好むのはどうしてだろうか。


「危機感駆動型」の日本と「希望駆動型」の米国

 この違いを類型化すると、日本人に多い類型は「危機感駆動型」であると言える。「このままではお前(日本)はダメになる!」「危機だ!」と言われると強く反応して動き出すわけである。一方、米国人に多い類型は「希望駆動型」である。「できるじゃないか!」「ステップアップできるぞ!」と励まされると強く反応して動く。こうして考えると、日米の様々な違いが説明できる。

 例えば、米国のエコノミストには毎度楽観的な見通しを言う連中がなぜこうも多いのか。反対に日本のエコノミストには、どうして「危機の預言者」みたいな連中がわんさといるのか。

 日本の歴代首相や政治家は、まず危機感の強調から始まるタイプが多い。「日本はこのままではダメになる!」方式だ。一方、米国の大統領、政治リーダーたちはどんな困難な状況でもまず希望を語ることから始める。「私のリーダーシップを受け入れるならば、難局は打開できる」と、まず希望を語るのが米国のリーダーの資質だ。

 「危機・没落に直面しているのだから構造転換(改革)しないと日本はダメになる」なんて議論は、戦後を通じて何度も形を変えて繰り返されてきた。1960年代から70年代初頭に東京大学のマルクス経済学者らによって編集・発刊された代表的なシリーズは「日本資本主義の没落」である。高度経済成長の真っ只中で「没落」を強調する感性はピント外れを通り越して、超先見性とでも呼んだらよいのか。


臥薪嘗胆、富国強兵、輸出立国に共通する危機感のエートス

 なぜ日本で「危機感駆動型」が主流になったのか。実証的に語ることは難しいので、これは筆者の空想的な仮説に過ぎないが、日本のたどった現代の歴史的な環境、「生い立ち」に負うところが大きいのかもしれない。

 幕末、明治の日本人を駆動したのは危機感だった。幕末の攘夷論に始まり、明治には「臥薪嘗胆、富国強兵で欧米列強に伍していかねば、日本は立ち行かなくなる」という強烈な危機感をバネに展開してきた。「臥薪嘗胆」や「富国強兵」は中学の歴史の教科書で習い、私自身の心にも深く刻まれた。

 戦後の日本経済の「輸出立国」もやはり危機感駆動型を下地にしたものだ。

 「日本は天然資源の乏しい小さな島国。だから資源を輸入して高品質の製品を製造、輸出して外貨を稼がなくては経済が立ち行かなくなる」

 これは戦後の日本人の多くが共有した一種の「教条化された危機感」である。「臥薪嘗胆、富国強兵」は「輸出振興、高度成長」に代わったが、下地にあるエートスは同じ「危機感」である。

 一方、米国は欧州で食いはぐれ、あるいは宗教的に迫害された人たちが「新大陸での希望」に賭けて移民してできた社会だ。16世紀には北米の植民者の半分ほどが最初の厳しい冬を越えることができずに死んだと言われるが、それでも彼らを突き動かしたのは「危機感」ではなく、「希望」だった。

 東海岸地域であぶれた人たちも、西部・フロンティアへの希望に導かれて西海岸まで広がった。カリフォルニアのゴールドラッシュは、そうしたフロンティアでの希望の実現を象徴する出来事だったのだろう。

 地理的なフロンティアが消滅しても、新ビジネスや技術開発がもたらすフロンティアの希望に駆られて走り続けてきた。現在でも、毎年不法入国も含むと100万人近い移民が「職を得る希望」に導かれて米国に流入する。


「危機感駆動型アプローチ」では日本は良くならない

 ともあれ、危機感をバネにすることでしか変革できない性分ならば、「危機」や「没落」を強調する今日の風潮も、日本的な変革志向の一環ということになるのだろうか。しかし、どうも今日の日本で語られる「危機論」や「このままでは没落する論」は変革機運に結びついているというよりも、むしろ自己暗示的な自縛や閉塞を生んでしまっているような気がしてならない。

 日本が今日直面している1つの問題は「危機感駆動型アプローチ」の限界それ自体なのではなかろうか。危機感駆動型の限界は「喉元過ぎれば熱さを忘れる」ことにある。

 幕末の西欧列強が武力で植民地獲得競争をしていた時代、あるいは戦後日本のほとんどの都市が空襲で焼け野原となった状態では、事態は切迫した危機そのものであり、危機感をバネにした変革も頑張りも長期に持続するものとなった。

 ところが、なんだかんだ言っても豊かさを実現した今日、不良債権問題と不況が終焉するや大した改革もしていないうちに「改革疲れ」を語り、変革機運は後退してしまった。財政赤字、年金不安、少子高齢化、地球温暖化──。今日の日本の諸問題は放置しておけばやがて大禍となろうが、何もしなくても今日、明日に困るものではない。危機感駆動型アプローチが最も苦手とする代物なのだ。

 アプローチを切り替えて希望駆動型にシフトし、個人レベルでは各人の弱点を強調、矯正するよりも、強みを伸ばす姿勢を取るべきではないだろうか。組織や社会のマクロレベルでは長期的な将来の目標を掲げて牽引する方策の方がよいのではなかろうか。そのようなビジョンを持った国政レベルのリーダーシップが不在であることは困ったことだが、各層でできることはあるだろう。

 「お父さんの良い点を挙げなさい」。8歳と12歳の自分の子供に言ったら、まるで気乗り薄で「別に~。働いていることかなあ」「まあ、お金ないと困るしね」とのご回答。

 「じゃあ、お父さんの悪い点を挙げなさい」と言うと、急に目を輝かせて「ビール飲み過ぎ!」「ワインも飲み過ぎかも!」「暖房の温度上げ過ぎ」「冷房の温度は下げ過ぎ」などとポンポン飛び出してくる。

 う~ん、どうやら自分の家庭の意識変革から取り組む必要があるようだ。


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NBOnline
危機感駆動型ニッポンの危機!?【続編】
日本人の“無謬信仰”こそが閉塞の元凶だ

2008年3月21日 金曜日 竹中 正治
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/
20080319/150553/

 前回の論考『危機感駆動型ニッポンの危機!?』に寄せられた35件のコメントを見る限り、今の日本に本当の危機感があるのか、あるいは日本が危機感駆動型とは違ったやり方で変革できるのかについては、ご異論の方々もいた。しかし、私たち日本人の類型(平均的な性向)が危機感駆動型である点については一致した同意をいただいたようである。

 その中で1つ、私の心を捉えた次のようなコメントがあった。

「一方で日本企業は、危機管理の点で詰めが大甘です。リスクを見て見ぬふりをしてフタをするからではないかと思います。ネガティブなことを言うと忌み嫌われることがあります。特に経営者の方々にコンサルタントが『御社にはこういうリスクがあります』というようなことを言うと『縁起が悪い』といって怒られる」

 なるほど、日本の組織、社会は危機管理が甘いと言われてきた。もちろん、日本の組織に「危機管理がない」わけではない。

 例えば2004年の新潟県中越地震の際に1人の死傷者も出すことなく緊急停止した上越新幹線、あるいは昨年の中越沖大地震の時に想定の2倍以上の激震にもかかわらず放射能漏れを起こすことなく緊急停止した柏崎刈羽原子力発電所など、こうした事例を見ると、想定された緊急時に対応する高度な危機管理も実現されている。つまり「想定される地震に対する安全度の向上」というような事業の計画通りの遂行には強い執着力を発揮する組織なのだ。


危機感は十分過ぎるのに危機管理は杜撰という矛盾

 ところが、不確実な現実の中で様々な悪環境を想定し、期待通り進まなくなった場合の次善策や軌道修正、代替策を用意しながら事業を進めることはひどく苦手のようだ。想定された情勢と現実が大きく乖離し始めても、「決められたことだから」とどんどん進められてしまう莫大な公共事業、薬害情報が上がってきても「使用中止」を通知せずに被害を広げてしまう行政など枚挙にいとまがない。

 一見矛盾する日本人の危機感駆動型と危機管理の杜撰さはどのような仕組みで並存しているのだろうか。エコノミストとしての領域から外れて(とっくに外れているだろうが)政治学や社会学の領域に突っ込みそうだが、この分野ではアマチュアの特権で大胆に思考の羽を広げてみよう。

 工学が専門の東京大学名誉教授、畑村洋太郎は著書『失敗学のすすめ』(2000年、講談社)の中で、様々な致命的な事故が「失敗と上手くつき合うことができなかったことが原因」で起こると述べている。要するに、失敗の発生を前提とし、小規模の失敗が生じた時にはそれが大規模な失敗に発展しないようなフィードバックを働かす、あるいは起こった失敗の諸事例から失敗の要因と法則性を抽出して未然に防止する仕組みを整える──、そうした運営、学習に日本型の組織、教育は弱いのではなかろうかと指摘している。

 なるほど、その通りだろう。これは今に始まったことではない。旧日本軍の組織的弱点を分析した『失敗の本質─日本軍の組織論的研究』(戸部良一ほか著、1984年、ダイヤモンド社)を読まれた方は多いだろう。「失敗の本質」から浮かび上がってくる1つのポイントは、旧日本軍が作戦の立案から遂行まですべての面にわたって、失敗した場合の代替策を用意せず、成功も失敗も合理的に分析して教訓を抽出することのない組織だったことだ。

 合理的で柔軟な戦略形成が不在だから、特に戦争の後半戦では兵力において勝る米軍に対して、本土防衛の危機感を煽り、あるいは「精神力では勝っているから勝機はある」などという陳腐な鼓舞を繰り返し、玉砕していったわけである。

 そもそも対米開戦の是非について、政策の意思決定過程で様々なケースを想定した戦略シミュレーションが行われていれば、軍事・生産能力における彼我の差は歴然としており、開戦は無謀な策として退けられただろう。その結果、外交を通じた妥協・妥結が志向されていただろう。ところが結局、東条英機の「人間たまには清水の舞台から目をつぶってとび降りることも必要だ」という情緒に支配され、危機感を煽りながら、危機管理のない戦争に突入したのだ。


失敗からの学習を妨げる日本の無謬信仰
【無▼謬】  むびゅう[―びう]  Yahoo大辞林より [ 大辞林 提供:三省堂 ]
誤りのないこと。

 では失敗に遭遇して軌道修正すること、失敗から学ぶことを難しくしている日本特有のカルチャーとは一体何だろうか。それを一言で表現すれば「御上の無謬信仰」ではなかろうか。

 薬害訴訟に象徴されるように日本の行政組織は致命的な惨状に直面するまで行政の過失、誤謬を認めようとしない。旧大蔵省時代の「銀行は1行たりとも破綻させない」という護送船団方式も無謬信仰の1つであった。

 無論、東西を問わず官僚組織にはこの点で同じ傾向がある。しかし、米国では政権が代われば、行政官僚機構の上層部も代わるので、前政権時代の失敗を認めることも、政策転換も比較的ドラスチックにできる。ところが日本ではそうした交代が起こらないので、行政組織に失敗を認知する自浄作用が働き難い。

 民間の大組織でも同様だ。社長も頭取も内部昇進で決まる組織では、現経営陣トップの経営政策の失敗が社内で冷静に議論、評価され、教訓が抽出されるようなことがなかなか起こらない。事故が起こって問題が表面化すると、経営のトップが記者会見を開いて「ニ度とこうした過ちが起こらぬように再発防止に努めます」と陳謝する。しかし、こうした発言自体が「無謬信仰」を上塗りしているのではなかろうか。

 過ちは確率的にどうしても起こるものであり、それを前提に小さい失敗を許容しながらも、それが大きな失敗につながらない工夫が必要なのだ。

 無謬信仰が御上の論理に過ぎないのであれば、様々な失敗、失策の結果、とっくに信仰は瓦解しているだろう。ところが、政府や大企業の過ちを批判するマスコミや一般国民にも「御上(公共の責任を担うような大企業を含む)は本来無謬であるべきだ」という信仰があり、無謬信仰を根強いものにしている。


無謬信仰の熱烈信者はマスコミ

 日本のマスコミは、この信仰をわずかでも裏切る過ちを犯した権力・権威には容赦のないバッシングを浴びせるのが自らの崇高な使命だと思っているようだ。

 昨年の中越沖大地震では全く問題にならない程度の微量の放射能漏れであったにもかかわらず、柏崎刈羽原発の「安全性」をセンセーショナルに叩いたマスコミの姿勢はその一例だ。米国牛肉のBSE(牛海綿状脳症、狂牛病)問題でも、輸入される牛肉は「完璧に安全」でなければ「日本の食の安心が崩壊する」と言わんばかりの報道が続いた。同じことが中国産の農薬入り冷凍餃子事件を発端に冷凍食品全体に今広がろうとしている。

 「安全」とは本来確率的に考えられるべき概念であり、絶対の安全ということはあり得ない。安全の精度を上げるには経済的なコストもかかる。要するに、コストとのバランスでどの程度の安全確率ならよしとするかの冷静な議論が必要なのである。にもかかわらず、完全100%の安全実現を前提として、そうでなければ「安心が崩壊する」という騒ぎはメディアの責任だろうか、それとも国民的な不安神経症の産物なのだろうか。

 無謬を前提に作られたシステムはいかに精緻でも、1度失敗が起こると脆く、混乱する。システムの動揺に直面してどうしたらよいのかわからなくなるので、危機感が強調される。「危機を乗り越えるために総員必死になって頑張れ!」という展開になってしまう。無謬信仰と危機感強調カルチャーはこうして並存しているのではなかろうか。


無謬信仰が権力構造におけるリーダーシップ不在の核心

 ここまで考えて、はたと気がついた。日本人のこの根強い無謬信仰は、権力構造におけるリーダーシップの不在とも結びついているのではないだろうか。

 現実には無謬であり得る権威、権力は存在しない。無謬であり得る唯一のあり方は赤子のように無力化してしまうことである。権力を神聖化、無謬化するためにその頂点は無力化し、実際の権力の執行は下位の者によって代行される構造が生まれる。失敗はすべて、代行者、輔弼(ほひつ)者の責任となれば、頂点は無垢、無謬でいられる。

 その究極の姿が天皇である。歴史を振り返れば、天皇が直接的な権力者であった時期(天皇親政)は極めて短い。その権威・権力は常に摂政、関白、将軍、重臣などによって代行されることで、頂点にある天皇は無垢、無謬の存在として存続したのである。権力の代行者であった将軍もその権威が確立すると、神聖化、無謬化するために、実際の権力は執権、老中・大老などによって代行される構造が生まれた。こうして権力構造の頂点から下方に向かって主体的意識の消滅が連鎖的に生じる。

 この点について、カレル・ヴァン・ウォルフレンは著書『日本 権力構造の謎』」(1990年、早川書房)で、日本の権力のピラミッド構造には「究極的な政策決定権を持つ頂点が存在しない」と指摘している。この洞察は別に彼のオリジナルではない。精神分析で著名な河合隼雄は「日本的中空構造」という視点を提示して、そのマイナス面として「誰が中心において責任を有しているのかが不明確な体制」が日本的組織、権力の特徴であると述べている(『中空構造日本の深層』、中央公論新社、1982年)。

 さらに遡れば、丸山眞男は『現代政治の思想と行動』(1946年)で次のように書き、日本的政策決定プロセスにおける主体的意識の不在を批判している。

「ナチスの指導者は今次の戦争について、その起因はともあれ、開戦への決断に関する明白な意識を持っているに違いない。然るに我が国はこれだけの大戦争を起こしながら、我こそ戦争を起こしたという意識がこれまでの所、どこにも見当たらないのである。何となく何物かに押されつつ、ずるずると国を挙げて戦争の渦中に突入したというこの事態は何を意味するのか」

 昭和天皇については、寺崎英成が記した『昭和天皇独白禄』などから、昭和天皇自身が自分は立憲君主であって専制君主ではないので、東条内閣の開戦の決定を天皇自身はそのまま裁可するしか選択肢はなかったと考えていたと伝えられている。戦争責任問題を考えると、こうした主張には大いに異論のあるところだが、日本において神聖な権威・権力は無力化することによって無謬化しようとすることを象徴するものだろう。

 そうすると、危機感強調型のカルチャーはリーダーシップ(主体的意識)の不在と表裏だとも言えよう。

 何を実現すべきなのか、それを妨げる問題に対して誰が責任を負うのか、解決するために何を改革すればよいのか、そうした議論を一つひとつ積み上げながら前進するためには、明確なビジョンを掲げ、その実現に責任を負うリーダーシップが必要だ。しかしそれが不在だから、問題状況は漠然とした危機感として拡散し、「危機だ。総員奮起して頑張れ!」という毎度の陳腐なお題目に行き着いてしまう。


先ず隗より始めよ

 さて、私たちはこのような危機感強調型カルチャーの閉塞からどのように抜け出したらよいのだろうか。政治の面では「政策は過ちを犯す、その時は政権を交代する」という自明の原則を実現するしかないだろう。

 同時に、閉塞を生み出している根底に無謬信仰があるのだから、私たちはまずこれを捨てることから始めよう。「失敗ゼロからの脱却」である。

 最初に引用した畑村洋太郎が言っている。「決められた設問への解を最短で出す方法、『こうすれば上手くいく』、『失敗しない』方法を学ぶことばかり重視した教育からは、創造力を養う機会は生まれない」──。

 昨日までの成功が明日の成功を約束しなくなった今の時代、失敗から学習し、自ら課題を設定して挑戦を繰り返すことを称えようじゃないか。せめて自分の部下、子供、自分が関係する若い世代、そして肝心の己自身にはそうした気持ちで接することから始めよう。

(敬称略)


竹中 正治(たけなか・まさはる)
TakenakaMasaharu.jpg
国際通貨研究所、経済調査部長・
チーフエコノミスト

1979年東京大学経済学部卒、東京三菱銀行(現三菱東京UFJ銀行)の為替資金部次長、調査部次長などを経て、2003年3月よりワシントン駐在員事務所所長。ワシントンから米国の政治・経済の分析レポート「ワシントン情報」を発信する傍ら、National Economists Club(WDC)役員を務めるなどエコノミストとして活動。2007年1月に帰国、2月より現職。著書に、『通貨オプション戦略』(日本経済新聞社、1990年)、『米国経済の真実』(共著編、東洋経済新報社、2002年)、『素人だから勝てる 外貨投資の秘訣』(扶桑社、2006年11月)など。

2008年03月20日

ダライ・ラマ法王日本代表部事務所からのアピール/日本の皆さまへ

ダライ・ラマ法王日本代表部事務所からのアピール/日本の皆さまへ
2008年3月19日 ダライ・ラマ法王日本代表部事務所
http://www.tibethouse.jp/news_release/2008/
080319_release.html

ご存知の通り、今チベットは重大な危機に直面しています。平和的デモの参加者が、銃や戦車で残虐に弾圧されています。中国当局は、大量のチベット人を逮捕拘束し続けています。今チベット全土は極度の緊張が続いています。
中国当局は事態の沈静化を宣言しましたが、実際は事態はいまだに戒厳令下のような状況です。中国が外国メディアや外国監視団の現地立ち入りを禁止し、状況の把握を許可していないという事実自体がそのことを物語っています。

中国当局は、「ダライ・ラマに扇動されて動乱が起きた」「ダライ・ラマが北京五輪のボイコットを呼びかけている」と繰り返し述べていますが、ダライ・ラマ法王やチベット亡命政府が北京五輪の開催に反対したことは一度もありません。この点は、ここで再度はっきりと申しあげたいと思います。
オリンピックは、地上に生きるすべての人々の平和、自由、調和を象徴しています。我々は、このオリンピック精神が北京五輪で花開き、地球全体が平和に包まれるところをこの目で見たいと願っています。しかし、それを実現するには、一人一人がオリンピック精神にのっとって行動しなくてはなりません。

ラサをはじめとする各地で行なわれたデモ行動は、北京五輪とはほとんど関係がありません。これは、長年抑圧されてきたチベット人全員の中に鬱積していた憤りや不満が一気に噴出して起きたものです。チベット人は、中国による植民地統治のもとで、現在に至るまで想像を絶する苦しみを強いられてきました。いくら中国側が、「チベットは発展し、チベット人は幸せになった」と述べ立てたところで、今回の事件は、中国の統治下におかれたチベット人は、まったく幸福ではない、というチベット人の明確なメッセージなのです。

我々は、チベットの状況を深く憂慮しています。我々はこれまでも中国当局に対し、武力による解決を慎み、我々チベット亡命政府と話し合いによって双方の相違点を解決するよう要請してまいりました。
我々は、国連や各国政府が事態の調停に乗り出すよう要望しております。

私は苦しむチベット人全員を代表し、日本の皆様に手を合わせてお願いしたいと思います。どうか、中国当局が我々の誠実な気持ちを理解できるよう、また、現在のチベットの状況に国際的な基準とオリンピック精神にのっとって対応できるよう、日本の皆様のお力をお貸しください。

皆さまのご理解とご支援に、心より感謝いたします。

ダライ・ラマ法王日本代表部事務所
代表 ラクパ・ツォコ

2008年03月18日

あの新聞の社説まで!?

とんでも左翼系の琉球新聞まで社説にチベット暴動に関して中共政府への意見を載せている。新華社での中共政府の発表は警察は一切武器を持たず、発砲もしていないようなことだったが、琉球新報は中国警察側が発砲したと書いているではないか。

彼らにとって今回のチベット暴動はよほど由々しき事態なのだろうか。

琉球新報 社説
チベット暴動 強硬路線は対立深めるだけ (3/17 9:58)
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-32238-storytopic-11.html

 中国チベット自治区ラサで大規模暴動が起き、多数の犠牲者が出た。警察部隊はチベット人のデモ参加者に対し、発砲するなど武力鎮圧に踏み切っており、1989年のラサ暴動以来の痛ましい事態となった。
 過度のデモ鎮圧は、暴動を誘発し、あおるようなもので、事態の沈静化につながらない。むしろ対立と混迷の度を深め、犠牲者が増えるだけだろう。
 中国政府はデモ隊への武力行使を厳に慎むべきだ。国際社会の信頼を得て、8月の北京五輪を成功に導きたいと考えるなら、チベットへの強硬路線に終止符を打ち、対話路線へと転換する確固たる姿勢が求められる。
 チベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ14世と中国政府の対話は、79年から94年まで続いた。その後、中断し、2004年に再開されたが、目立った成果を挙げていない。
 背景には胡錦濤国家主席がチベット自治区のトップだった時代にラサ暴動を武力鎮圧し、■小平氏らに気に入られ、中央に引き上げられたという経緯がある。
 しかし、こうした強硬姿勢が通用する時代でもない。今回は国際人権団体が「国際的な人権基準の侵害だ」と中国政府を批判。欧米各国も胡政権に自制を求め、デモ参加者らの身柄拘束を解除するよう求める声明などを出した。
 残念ながら、胡政権は強硬姿勢を崩していない。逆にダライ・ラマの関与を指摘し「(暴動は)ダライ集団が入念に画策した」と強く非難している。
 ダライ・ラマは非暴力を貫く活動が認められ、ノーベル平和賞を受賞した人である。本人も否定しているように、暴動を画策したとは考えにくい。それにチベットの僧侶は、基本的に抗議のデモ行進はしても、暴力に訴えることはしない。今回は警察部隊がデモ参加者を多数拘束し、これに抗議したデモ隊側が政府批判を爆発させたという見方が支配的だ。
 ただ、一部の参加者が略奪に走り、漢民族の商店主らを襲撃したとの報告もある。事実なら、チベットの非暴力精神に背く行為といえ、深く反省せねばなるまい。
 いずれにしても、双方が対立を深めてはチベット問題の解決は遠のく。五輪を控え「和諧社会(調和の取れた社会)」実現を国内外にアピールしてきた胡指導部にとっても、「高度な自治」を求めるダライ・ラマ側にとっても得策ではあるまい。
 北京で先ごろ記者会見したチベット民族の代表は、チベット自治区と青海省を結ぶ「青蔵鉄道」の完成を喜んでいた。この鉄道にチベットの人々を乗せ、五輪会場を案内するくらいの度量と取り組みが中国政府にはほしい。

※注:■は「登」にオオザト


中国に物申す!

中国新聞社説にも中共政府への意見が載った。今回のチベット報道に関する他国の新聞報道がよほどのものだとうかがい知れる。何とかして中共政府の擁護に回る糸口をつかむためだろうけれど、果たして、今の中共政府にこの日本の新聞社の動きを味方するものと見ることができるか? もしかしたら、攻撃とみなし、日中協定違反と言って来るかも知れない。

さあ、どうなる?

* * *(これより転載)

中国新聞 社説
チベット暴動 平和的な収拾の道探れ '08/3/18
http://www.chugoku-np.co.jp/Syasetu/Sh200803180170.html

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 中国チベット自治区ラサで起きた大規模暴動は、中国政府が武力行使で鎮圧を図る一方で、抗議デモは周辺の省へ拡大している。

 インドのダライ・ラマ十四世の亡命政府やNGO(非政府組織)が明らかにした犠牲者数は四川省を含めて九十人近くに達する。この数字が事実なら、一九八九年のラサ暴動の死者十六人を上回る。これ以上の流血は防がねばならない。平和的に事態の収拾を図り、話し合いなどによる問題解決への道を探ってほしい。

 中国政府と亡命政府双方の死者数が大きく食い違っているのは、中国政府が外国メディアの立ち入りを制限しているためだ。

 暴動の背景には、漢民族を大量移住させ給料面で優遇する「差別的統治」に対するチベット人の不満があったようだ。それが一気に火を噴いたとの見方だ。

 一方、北京五輪を控えての抗議デモは、国際社会にチベット問題をアピールする狙いもあったかもしれない。

 中国政府は、ダライ・ラマが「背後で操った」計画的な暴動だと非難しているが、ダライ・ラマはきっぱりと関与を否定している。そのうえで「私をスケープゴートにするのなら、真相究明のため国際社会の調査を受ければいい」と会見で述べた。

 この問題に対する国際社会の関心は高い。中国政府はこの言葉を真摯(しんし)に受け止めるべきだ。

 ダライ・ラマと中国政府との対話は九四年に中断した後、二〇〇四年に再開されたが、ほとんど成果を挙げていない。亡命チベット人の帰還などは手つかずだ。

 ただ、長年の中国支配が既成事実化するなか、ダライ・ラマはそれまでの独立論者の立場を捨て、多くのチベット人が行政にかかわるなど「高度な自治」を求める現実路線に転換している。

 共産党独裁で強力な統一国家をめざしてきた中国政府には、チベットの動きは「独立を求める分裂主義」として神経過敏になる面もあるようだ。だが、武力による制圧は、グローバル化する国際社会で理解を得るのは難しいだろう。胡錦濤政権には、粘り強い話し合いなどによる解決を求めたい。

 北京五輪は、経済力をつけた中国が国際社会の一員として、真の信頼を得られるかどうかの試金石だ。力による制圧と流血は「平和の祭典」にそぐわない。中国政府に、そうしたメッセージを伝えることは日本政府の責務でもある。

(転載ここまで)* * *

2008年03月17日

胡錦濤主席を名指しした社説!

正直、読んだ瞬間「やった!」と思いました。なんと、胡錦濤政権への意見を社説という新聞社の柱部分に示したことです。

穿った見方をすれば、中国共産党内部で胡錦濤政権に反目する勢力に共謀するものかもしれないですが、いずれにせよ日本のメディアで産経新聞を除いて、あからさまな親中記事ばかりを載せる日本の新聞社において、胡錦濤政権を名指しとは、ちょっとすごいんでなかろうかと思った。

親中かもしれないが、それをしてなお、名指しで社説を書いているのであれば、今回のチベット動乱は中国共産党政府にとってそれだけダメージが大きいのではないかとかんぐっている。

共産党だろうと革命だろうと、中国政府がどうかわるかは、日本のこれからの進路に影響を及ぼすことは必至である。たとえば毒ギョーザ事件を受けて、中国の規制強化のために日本向けの冷凍食品の多くが港に留まっていると聞いた。現実、何店かある近所のスーパーでも、野菜の陳列が激減した店がある。中国野菜を扱っていたことが明白だ。他のスーパーで地元の農家から仕入れているところは、いつもどおり置いてあると家内が言っていた。

米国、ロシア、インド、南米など他の国々の動きも変わる。日本はさらにしっかりと進路を確保する必要に迫られてくる。1イデオロギーに偏る教育を早く打開して欲しい。組合運動などにかまけるヒマは寸秒もない。日本と日本の未来を想う国民を育ててくれ。人権と平等に時間を取られすぎだ。

というわけで、コピペしておく。

* * *(ここより転載)

北海道新聞 社説

チベット暴動 流血の拡大は許されぬ(3月17日)
http://www.hokkaido-np.co.jp/news/editorial/81932.html

 中国のチベット自治区ラサで僧侶や住民らによる大規模な暴動が起こり、治安部隊との衝突で多数の死傷者が出ている。

 中国国営通信は住民ら十人が死亡したと伝えたが、インド北部にあるチベット亡命政府は少なくとも八十人が犠牲になったと発表した。

 軍や警察が厳戒態勢を敷き、事態は沈静化しつつあるという。しかし、外国人は現地に入ることができず、詳しい状況はわかっていない。チベット民族が多く住む四川省アバ県で死者が出たとの情報もある。

 胡錦濤政権はこれ以上流血が拡大しないよう武力行使を控えるべきだ。

 ラサでは一九五九年の「チベット動乱」から四十九年にあたる十日から僧侶たちによるデモが続いていた。

 動乱が起きたのは中国軍がラサに進駐してから八年後で、チベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ十四世がインドに亡命するきっかけともなった。

 十日は犠牲者を弔い、中国の支配に異を唱える象徴的な日でもある。そのデモに加わった僧侶が連行されたことが暴動の引き金になったようだ。

 外電などによると、多数の住民が暴徒化して警察車両や商店に放火し、これに治安部隊が発砲。観光客の証言では深夜まで銃声が聞こえ、市内では十数台の戦車も目撃されている。

 自治区当局者は十四世の支持者たちによる計画的な破壊行為だと非難しているが、十四世は否定している。

 中国政府はこれまでチベット自治区での分離・独立運動を厳しく取り締まる一方、鉄道敷設などのインフラ整備や仏教関連施設への投資など硬軟織り交ぜた対策を取ってきた。

 しかし、中国語教育の強化など中国とチベットの一体化を進める中央政府に対し、チベット民族の不満は強まる一方だったとされる。

 おりしも北京では全国人民代表大会(全人代)が開かれており、自治区の代表がチベットの発展と安定を強調したばかりだった。政府の面目丸つぶれというところだろう。

 国営通信社は異例の速さで暴動を伝えたが、テレビに映し出されるのは商店を壊したり、投石する住民ばかり。軍がデモ隊を鎮圧する場面はない。

 八月の北京オリンピックを控えて強硬なイメージを国際社会に印象づけたくないとの計算があるのだろう。

 だが、いまなすべきことはそんなことではなく、チベット問題の根本的な解決策を模索することではないか。

 力で抑え込んだとしてもいずれ同様の事態が繰り返される。十四世との対話を真剣に探るしか道はあるまい。

 十四世も独立には固執せず、「高度な自治」を目指す考えに変わってきたとされる。胡主席に一歩踏み出す勇気を求めたい。それが国際社会での中国の立場を高めることにもなろう。

(転載ここまで)* * *

チベット暴動

YOMIURI ONLINE
チベット族の抗議行動、自治区隣接の四川省でも
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20080316-OYT1T00571.htm

「目撃」邦人学生、生々しく語るチベット暴動
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20080316-OYT1T00576.htm

ダライ・ラマ14世が会見、チベット暴動で国際調査を
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20080316-OYT1T00418.htm

チベット暴動関与者への中国側の捜査が本格化
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20080316-OYT1T00444.htm

甘粛省、厳戒下の“シャッター街”に投石跡
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20080316-OYT1T00446.htm

インド・ダラムサラで亡命チベット人が「団結」の集会
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20080316-OYT1T00411.htm

米国務長官、チベット暴動で中国政府に「自制」求める
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20080316-OYT1T00398.htm

中日新聞 CHUNICHI Web
四川省で8人射殺か チベット暴動拡大 ラサの死者『80人』に  2008年3月17日 09時12分
http://www.chunichi.co.jp/s/article/
2008031790070858.html

今朝もニュースが続いていますが、読売のホームページをチェックしてみたら、中国側が行ったこれまでの迫害と弾圧、中共政府がたったいま行っている威嚇発砲等に関する部分がまったく欠如している。この記事を始めて見た人のイメージが固定しないよう、チベットが受けた迫害に関する報道もあることを知らせるべきだ。中共側の報道を大きく扱ってほしくない。

産経新聞 IZAブログ
北京趣聞博客 (ぺきんこねたぶろぐ)
情報統制を超えて漏れ聞こえるラサの悲鳴をきけ! 2008/03/17 04:19
http://fukushimak.iza.ne.jp/blog/entry/513692

上の産経新聞の福島記者のブログにたった今この危機の只中にいる人たちのレポートがある。中共側の報道するダライラマの陰謀説が荒唐無稽でありプロパガンダに見えるとレポートしてくれている。これまでの経過も簡潔に紹介し、素直な感想を書いている。

たった今、この現実を知り、思考を整えておくのは私たち大人の役目です。そうして、世界には何があって、どういうものであるかを、子供たちにできるだけ間違いなく伝え、グローバルになりつつある世界の中で、しっかりと生き抜き、そしてまた子孫を残していけるように、なってほしいと願っています。

私が最近感じることは、もう46歳という年齢もあるのでしょうけれども、生きるというのは、常に命がけなんだということなのです。会社で仕事をするという、一見これほど安全なことはないようですが、そんな中にもじつは、全ての人類に完全平等に、「死」は「生」と隣り合っているなと、感じるのです。今のチベットのような惨劇が日本に起きないという保障はまったくありません。将来も続く今の安全は、私たち自身の生きる努力以外に勝ち取る術はありません。

常に視野を広くもち、将来のために中心において大事にすべきものはなんであるかを、間違えたくないと私は願うのです。

2008年03月16日

2008年3月16日(日)

さて、デスクトップパソコン不調からリカバリをかけ、ようやく各アプリケーションの再インストールも進み、後はホームページ関連だけになってきた。本当にメインパソコンのクラッシュは、私のように会社の仕事の合間にこの仕事をしているものにはダメージが大きい。サブのノートパソコンには写真を処理する役割を持たせていないので、主だったブログエントリーをつなぐことができないのだ。日常の日記処理だけに終わるので、楽天ブログのような簡単なものしか進めることができない。おかげでネタようの日記帳の処理も滞っている。はやく仕事の時間配分を元に戻さないと、家族の相手ができないために家内の我慢も限界のようで、最近は目つきが怒りの臨界点突破寸前を指し示している。






2008年03月12日

コラム紹介

日経BP BP-Net
SAFETY JAPAN コラム
“外交弱小国”日本の安全保障を考える ~ワシントンからの報告~
第70回 急膨張する中国の軍事力に正面から向き合え!
国際問題評論家 古森 義久氏
2008年3月11日
http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/column/i/70/

こちらの「国際問題評論家 古森 義久氏」は確か産経新聞のワシントン支局の方のはずだ。ベトナム戦争の取材を経験され、現在のアメリカ共和党大統領候補のマケイン氏を何度か取材されたこともあると聞く。巷のテレビや新聞はヒラリーだオバマだという話ばかりであるが、左傾化著しい報道機関だから、大局が見えない報道ばかりで何のツッパリにもならないというのは、変わりはない。

さて、このアメリカ国防総省の中国の軍事力報告書も、日本でマスメディアから全国に流れることはめったにないが、毒ギョーザはだんまり作戦を決め込んだらしいお隣のchinaの今を、別の視点から観察できる貴重なコラムです。

福田首相や議員さんの国会の動きを見ていて感じることは、世界は日本人が満たしているのではないのになにを呑気な議会を続けているんだとあきれます。日本人など地球上のほんの数パーセントの存在であり、暴力戦争に明け暮れる国、殺人が横行する国がまだまだ地球上にあることを理解し、暴力に対抗して威嚇する手段を持たなければ、今の平和どころか、日本民族滅亡の可能性も十分ありうることを理解しないといけない。そんなことは全世界の国々、もちろん中国の国家首脳部でも常識として扱われている以上、アメリカの軍事力でカバーしてもらっている弱小ニッポンなどは理解していて当然であるのに、テレビの前の日本の首脳陣は高級なスーツを着て偉そうに何を悠々としているのか。というのが私の正直な感想です。スーツに似合う仕事をしろと愚痴をこぼさせてもらいます。

初めは私も今の福田首相と同じで、この手の話は他人事だったんです。国家も外交も私のあずかり知らないところで動くという事実に、斜めに構えて偉そうに不満をたれておれば生きていけると思っていた。ところが去年の慰安婦決議とアメリカと日本で同時に起きた安倍首相バッシングに驚きました。その後の状況を追いかけたとき、私たち国民の選挙結果や政治を見る目が、どれほどに国政を動かし進め、いかに私たちの生活を直撃するかという現実を知るにいたり、平和は他人任せでは絶対に手に入らない。自らに平和を希求する努力を積み上げてこそ為しうるものだと知ることができました。

それでこんなことを書いて何が変わるのかなどとすれた話をするつもりもありません。行動をおこしていることが重要なんです。その為の知識の1つがこの古森さんのコラムです。私に今できることはしっかりと会社の仕事をこなし、こうやってエントリーを書き、子供たちの成長に少しでも役立つ肥やしになれるように願うばかりなのです。それを手伝ってくれる家内にも少しでも楽な老後を迎えさせてやりたいだけです。ス直で純粋であろうと思っています。ス直と純粋というのは、何も知らず無知なことではありませんし、ひとつの思想に偏って他の思想を叩くことでもありません。あらゆる智慧と知識に触れ、吸収消化して、現実に負けることなく人類根源の平和を希求する理想実現のための一手一手の行動を積み上げて効果と結果を検証しては、また智慧を絞って日々新しくあらたな実践を積み上げることです。何年も同じことを繰り返しながら、その同じことは少しずつ変わっていくのです。

新たな智慧としての左翼思想であったものが、闘争を第一にして他思想の根絶を目的としために固形化することはなはだしく、最後は破滅を招くものとなりはてました。左傾思想の恐怖は知識を飲むのではなく飲まれることを甘美とする所にあります。自分がなぜ生きているのか、思想に埋没できるのは誰のおかげかなどを考えることを拒否するのが共産主義思想の根源であるし、ロシアも中国政府の中央部もそんな共産主義の悪業(アクゴウ)を知っていますし、それを利用すらしているのです。

さて、堅苦しい話ばかりも程ほどにしましょう。たまには程ほどに羽目をはずすのもその為であれば良いのです。だから、なんでも程ほどが良いんです。

そんなこんなで結局、今の仕事をきっちりこなし、程ほどにこうやって文書を書いて思想を鍛えて磨き、家族の顔を見て喜び笑い、子供たちに食べていく術と、世間にある現実を教えていくることが、当面の私の生きるということのようです。

さ、今日も元気に生きるとしましょう。

今このように生きられることを感謝できるというのは、本当にありがたいことです。


Sony Style(ソニースタイル)


2008年03月08日

国会空転1日につき

msn産経ニュース
国会正常化へ 来週から参院予算委審議入り  2008.3.7 20:02

あのね、国会空転1日につき、国民一人当たり1000円の税金還付、議員は給与1万円カットってどない? 生活のかかった会議に出ないなんて、私らサラリーマンには考えもつかんことですわ。政治ってのは派閥宗教だからいがみ合うことが仕事って、違うでしょ。いがみあって殺しあうことを避けるための政治であり国会であり話し合いでないの?

中国は軍事費の2桁伸ばして南京なんたらの捏造にガス田の調査にきたら軍艦出すって脅かしてきてるし、北朝鮮は日本国民の拉致に核開発とミサイル発射、韓国は竹島占領に慰安婦決議という暴力で来てるし、最近はオーストラリアと海で溺れた犬(シーシェパード)とかいう暴力組織には相応の武力で威嚇するのも、国民に毒ギョーザを食べさせないようにアメリカ牛肉のときのように輸入禁止するのも、二度と毒ギョーザを輸入しないように圧力をかけるのも政府の仕事じゃないの? 

その為に税金をとって国会開いてるんじゃないの?

血の出る傷を癒すための福祉、新しい希望と発展のための仕事をするのが人間じゃないの?

だから、ほんと、国会空転1日で国民一人当たり1000円でいいから、税金戻してよ。

人権擁護法案や外国人参政権とか外国に命をささげる国会議員じゃなくて、日本国とその将来と世界の平和の理想のために命をささげる議員はいないのかねぇ。その為に税金払ってんだけどねー。

ヒトとケダモノは違っているのがあたりまえ

ニュースやメルマガを読んでふと思ったのだけれども、どうも日本国政治家が朝鮮人民化、中国人民化しているような気がしてきた。利己中心、物欲主体のケダモノ精神じゃ、その親玉のchinaの言いなりになるのはあたりまえ。

それで、これを反面教師としてちょっと考えてみた。

思うことは、みんながやっているから大丈夫という時代は終わっているということだ。他の生命や他人に頼るばかりでどうする。なぜもっと自分は何をできるかを考えないのだろうか?

人はこの地上世界に秩序と繁栄平和をもたらすために大自然によって生みだされたんだ。だからどんなケダモノにもない知恵を持ち、それを使うための言葉を持つ。それは私たちがつくって編み出したのではなく、大自然からの要請により、その大自然との同調によって研鑽修練されて生み出されてきたものだ。智慧は人のためだけのものではない。

われらはケダモノになるために生まれてきたのではない。自然界に人間のような存在が他にないのは、人をして自然界たるこの地球を恒久平和発展させるために生まれてきたのだ。

ケダモノがしないから我等もしなくても良いのではない。

ケダモノに出来ない事をするために我等ヒトがあるのだ。

それをしない、しようとしない人間に自然は明日を与えてくれると思うか?

最近の私は、そう思うようになっている。


デポ新生活特集(大)


2008年03月05日

2008年3月5日(水) 啓蟄

今日は啓蟄で、暦の上では虫たちも活動を始めるころとなります。しかし、天気予報の言うとおり、今日は最後の冬日となりました。といっても、以前のような刺すような冷たさはもうありません。遅咲きの梅の花もほころんできましたね。そんな時期のせいか、私の使っている中では古参のデスクトップパソコンが動作異常を起こしました。もう、仕事が進まず、なんですか、これが切れそうという感情でしょうか。真剣に腹が立ちました。しかし、以前はパソコンなしで仕事をしていた上に、このようにノートパソコンもバックアップ用に手に入れているではありませんか。それでとにかくホームページの更新です。ノートパソコンでメールを読み込んでいたら、norton360がデスクトップと同じエラーを起こし、アイコンが消えてしまったなんて現象はもうどうでもいいです。好きにしてください。私は仕事を続けたいんです。パソコンを使いたいんじゃありません。どうか素直に仕事をさせてください。ほんと、祈る気持ちです。正直、気にしたら泣きそうになりますから、norton360が動かなくなったなんて無視します。へんなメールが来たんでnorton360が動作異常を起こしたかもしれないなんて思いたくありません。きっと気のせいだと思いたいと思っています。はーーーーーーーっ、ため息。

そしてアップロードしようとして、ffftpを起動したら、インターネットへの接続ができなくなっていました。あ、いやな破壊衝動が出そうですが、それは大丈夫。落ち着け、落ち着け。こんなときは寝るに限ります。おやすみなさい。おやすみなさい…。


2007 デポの商品ランキング(大)


2008年03月01日

2008年3月1日(土)

ドカン!と一発だけ雷様が朝の7時ごろに鳴った。まるで3月になったことを告げる時報のようでしたね。春になったぞーっ!てね。

さらにこのエントリーが100個目です! すごい!

これからも淡々と続くから、何個目でもかまわんといえばかまわないんですけどねぇ。